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Projectとは?

プロジェクトとは何でしょう? : 一緒に考えましょう

このプログラムでは、学生の皆さんそれぞれが、自分の興味・関心に基づく「プロジェクト(Project)」を立ち上げ、それを実施します。プロジェクトの成果はプレゼンテーションという形で英語で行い、世界に向けて発信します。Project 1から、Project 2、Project 3・・・と進んでいきますが、この本質は全く変わりません。皆さん自身のプロジェクトを果敢にそして自由に行い、それを英語でグローバルに発信しましょう!

皆さんは「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」での取り組みを通して、様々な機会を得、多くのチャレンジを行うと思います。プロジェクトが時間軸で進むにつれて、取り扱うスキルや期待される水準は異なってきます。しかしながら、プロジェクトの本質である、「自分の興味・関心に基づきプロジェクトを立ち上げ実行し、英語で発信する」という「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」の型(プロトタイプ)は一切変わりません。ですから、皆さんそれぞれの興味、関心を大切にして下さい。理想的には、それを自分の仕事や、人生をかけて取り組む内容に昇華させて下さい。授業のためにプロジェクトを立ち上げるのではなく、自分の人生を、生活をプロジェクトのコンテンツにして下さい。「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」は英語プログラムです。必修の英語カリキュラムとして履修が義務付けられています。したがって、皆さんが英語の能力を高めることはもちろん期待します。しかし、誤解しないでもらいたいのは、プロジェクトは英語学習のための手段ではないということです。皆さんにはグローバル社会で、自分の好きなこと、興味のあることで縦横無尽にプロジェクトを立ち上げ、時に世界中の仲間と協働し、それを人々の役に立ててもらいたいと本気で思っています。そして「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」において、その第一歩を踏み出してもらいたいと思っています。英語でプロジェクトを発信する理由は、グローバル社会で最も使われている主要言語は英語だからです。それ以上でも以下でもありません。つまり、「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」の第一の目的は、皆さんに(英語で)プロジェクトができるようになってもらいたいこと、これに尽きます。そして結果的に、もしくは副産物的にとも言いますが、気づいてみたら英語ができるようになっている、これが目指す姿です。詰め込み式の学習とは違って、「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」では、これまでとは違った形、リサーチやプレゼンテーションの活動のなかで多量の英語を読み、書き、話し、聞きます。これは皆さんが持っている英語力を高め、知識として眠っていたものを使えるようにします。しかしあくまでこれは主目的ではありません。これが「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」がいわゆるこれまでの「コンテンツ・ベースド」型の英語教授法とは一線を画す所以です。

皆さんが取り組むプロジェクトは、繰り返しになりますが、皆さんの興味、関心に基づきます。したがって、一つとして同じプロジェクトは存在しません。また皆さん自身も年齢や経験を重ねることでプロジェクトの内容が変化することもあるでしょう。つまり、どのプロジェクトが最も良いとか、このプロジェクトは満点で、これ以上改善の余地はない、ということは「ありえません」。時間的な制約で、中間、最終発表を行うことになりますが、しかしそれは皆さんのプロジェクトが「終わる」ことを意味するものでは決してないことを理解して下さい。ネバー・エンディング・プロジェクト、これこそがプロジェクトの醍醐味です。

私たちPEPの教員は、皆さん一人一人が、マイプロジェクトを持ち、誰に強制されるでもなく、自らの「ライフロングプロジェクト」として積極的にそれに取り組んで頂きたいと思います。そして、そのプロジェクトが皆さんの人生を形作っていくこと、一部の人だけでなく、全員がそれを行うことが重要だと思っています。

それではプロジェクトとは何でしょうか。少し立ち入って、この中身について検討してみましょう。

1. Kilpatrickのプロジェクト論に対する誤解と批判

「プロジェクト」という用語は、昨今ではだいぶ身近に、日常生活でも定着してきた用語だと思います。一昔前までは、小学校の「夏休み自由研究課題」と言っていたものが、「夏休み自由研究プロジェクト」と呼ばれることも多くなってきましたし、皆さんが会社で取り組んでおられる仕事も「◯◯プロジェクト」と呼ばれることも多いと思います。この場合前者は、課題や、計画といった意味で用いられていますし、後者は、案件や計画と言った意味でしょう。この他にも「建築」に関わって専門的にプロジェクトと呼ばれることもあります。また身近なところで、「友達を作ろうプロジェクト」であったり、「フルマラソン・プロジェクト」のような、チャレンジしてみること、取り組んでみることを「プロジェクト」と身近に呼ぶようになっています。こう見てみると、実はプロジェクトの意味も非常に多岐にわたっていますが、私たちは「広義のプロジェクト論」の立場に立っています。つまり、プロジェクトの定義をできるだけ広く捉えようとするものです。したがって、ビジネスで案件として称される「プロジェクト」だけではなく、身近なプロジェクト、様々なところで呼ばれるプロジェクト、全てを指したいと思っています。

また、あえて、昨今のプロジェクトの使い方に傾向を見出すならば、その多くに「時限的な」プロジェクトという意味があるように思います。つまり、特定の期間、取り組むのがプロジェクトであり、プロジェクトには終わりやゴールがあって、企業のプロジェクト等はその典型ですが、プロジェクトが終了したら、そのプロジェクトチームは解消し、また新たなプロジェクトに所属するような、そういった「期間が限られた」プロジェクトのイメージです。しかしプロジェクトは、本来、終わりのないものだと思っています。人生をかけて取り組むプロジェクト、ライフロングプロジェクトなどは、どちらかというと、期限が定まっているものではありません。したがってこれもプロジェクトです。パブリックなものからプライベートなものまで、小さなものから大きなものまで、時間の限られたものから限られていないものまで、様々な位置付けにあるプロジェクト全てを、私たちはプロジェクトの仲間に入れて考えたいと思います。したがって、どうぞ皆さんご自身も、プロジェクトとは何か、プロジェクトの定義とは何か、考えてみて頂きたいと思います。

先ほども述べたように、プロジェクトという言葉は、学校教育の分野でも数多く用いられるようになってきました。総合的な学習の時間や、情報のプロジェクト学習、社会科のテーマ学習など、こうした機会がより多く設けられるようになったことも一因かと思いますが、プロジェクト学習とか、プロジェクト型の授業とか、こんな言い方をよく耳にします。私たち自身も、教育の分野のプロジェクトについて研究、実践してきましたので、話の文脈をやや教育の側に寄せますが、こうして普及し、よく使われるようになった「プロジェクト」という考えについて、皆さんどんなイメージをお持ちですか? 確かにプロジェクト教育というのは、一種の「流行り」でもありますから、比較的良いイメージを持たれる方も多いかもしれません。しかし、ここでまず強調しておきたいのは、かつてアメリカでは、プロジェクトという教育メソッドが大変な批判にさらされた時代がありました。

20世紀初頭、アメリカの教育哲学として、「プロジェクト」という概念を一躍世界に知らしめたのがKilpatrickでした。プロジェクトという概念そのものは遥か昔からありましたが、これをプロジェクト・メソッドとして、教育方法論として活用したのがキルパトリックでした。ところが、このキルパトリックのプロジェクト論に対しては強い批判が起こりました。いくつか具体的な批判の例を挙げますと、「活動偏重、知識軽視」、「教科の組織的体系の軽視」、「放任」といった手厳しい論評です。

これはもちろん、キルパトリックにも非があります。彼は、プロジェクトを通しての学びが「付随的にしか起こらない」と言ってしまったんです。プロジェクトを遂行する際には必要最小限度の知識、minimum essentialsの習得のみが行われ、それ以外の学びは、付随的だ、偶発的だと言ってしまったんです。

みなさんこれを聞いてどう思われますか? 

初等、中等教育の関係者であれば、この批判は確かに当たっているな、そうかもしれないなと思うかもしれません。教育とは関係のない、ビジネスや私生活上のプロジェクトだとしても、目的に特化しすぎるがあまり、深いところには到達しない、浅い、手足だけ動かしていて、ただ「こなす」だけの傾向がプロジェクトにあると言われたら、「そう言われればそうかもしれないな」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかしながらPEPは、こうした考え方が、あくまで一方向的な見方であること、誤解に基づいた偏見であることを主張します。そして一貫してプロジェクトによる教育、プロジェクトによる生活、そしてプロジェクによる人生を肯定します。プロジェクトをすることが、学びにとっても、人生にとっても「良い」と思っています。皆さんにもどんどん「プロジェクト型」で、マイプロジェクトに取り組んでもらうことを大いに勧めます。キルパトリックに向けられたプロジェクトに対する批判は、決してプロジェクトの全否定には当たらないことを、これから徐々に説明していきたいと思っています。

しかしそうは言っても、このキルパトリックに向けられた批判は、はっきり言って的を射ています。耳が痛いと言ったらその通りですし、完全に反論し切れるかと言ったら私たちにもその自信はありません。つまり、プロジェクトには、ただ闇雲に取り組むだけなら、活動偏重、つまり思考が深まるわけではなく、知識がおろそかにされる傾向が否めないこと、適当にプロジェクトを「こなす」だけなら、しっかりとした「学び」、別の言葉で言い換えるならば、自身の「成長」が起こらないこと、そんな脆弱性、弱点がプロジェクトにはある、ということは正直に述べておきたいと思います。しかし、私たちが述べる意味で「マイプロジェクト」が実施されるならば、学びは体系的に起こり、取り組みに対しては強いモチベーションが喚起され続けます。

ここでは、プロジェクト型で取り組むことによる特徴を1つお話ししておきたいと思います。これはプロジェクト型のメリットだとも思っています。

プロジェクトを通して物事に取り組むとき、当然ですが、最優先事項はプロジェクトの遂行です。プロジェクトを実施すること、目的を達成すること、それに100%集中するわけです。そして、プロジェクトは、皆さん自身の関心のあることをやって下さい。ごっこはいりません。フィクションもいりません。本物の、リアルな自分の関心事をプロジェクトにして下さい。当然そこには、いわゆる真正の、オーセンティックな環境が生まれます。常にプロジェクトのことが気になって仕方がなくなります。しかし、それは自分が欲したことですから、どれだけ考えても苦にはならないはずです。つまり、プロジェクトは私たちを、プロジェクトの遂行へ動機づけるんです。自分の関心とプロジェクトが連動することで、生活の一部がプロジェクトになります。プロジェクトの遂行が、プロジェクトの目的の達成に近づくことが、自分の人生や自分の生活にとって役に立つことになります。もちろん、そのためには、そもそものプロジェクトの設定に失敗しては意味がありませんが、うまくプロジェクトを立ち上げることさえできれば、モチベーションは維持されるどころか、高まり続けるでしょう。

そしてプロジェクトの良いところは、一人一人が自分のプロジェクトに自律的かつ自発的に関わるところにあります。先ほども述べた通り、プロジェクトを遂行するんです。目的達成のために取り組むんです。どのようにゴールにたどり着くか、その道筋は、皆さんが決めていいんです。話を分かりやすくするために具体的な例を挙げてみましょう。例えば皆さんが、英語が得意になるプロジェクトを組んだとします。先ほども述べた通り、プロジェクトの場合、最優先事項は、プロジェクトをやることです。しかし、このプロジェクトのやり方は、千差万別で、皆さんが好きなように決めていいんです。例えば自分は、とにかく英語の母語話者を見つけてきて、話しまくる、それでもって得意になろう、そういう方略を取ったとします。立派な一つの手段です。

しかし、英語が得意になるためには、他の手段もあり得るはずです。例えば、まずは語彙を増やすことを集中的に行い、ある程度の数の語彙が身についたところで、話す練習をして得意にするというのも一つの方略です。あるいは、話すためには聞けなければいけませんから、リスニングやシャドーイングの訓練をする方法もあるでしょう。さらには、いきなり海外に留学して滞在することで得意にする人、世界中の友達をたくさん作って得意にする作戦を考える人、仕事で英語を使わざるを得ない環境に持って行く人、毎日1本ずつ、字幕なしで英語の映画を見ることにする人など、方法は無限にあります。そして、こうした無限の方法の中から、皆さんが好きな方略、やってみたい方法でプロジェクトは取り組んでいいんです。

つまり、マイプロジェクトとは、取り組む内容そのものも自由ですが、そのプロジェクトの取り組み方も皆さんが自由に決めることができる、そんな選択の幅が広い方法論なんです。やや小難しい言い方をすれば、プロジェクトには「中期目標の自由度」が備わっています。ゴールや目標という最後の、究極的な到達点に至るまでの、その中間地点の目標や取り組み方は、皆さんが自由に決めていいんです。得意なことから取り組む人、嫌なことを先に片付けてしまう人、あるいは、得意なことだけやってプロジェクトを達成する人など、全く人それぞれ、好きなように取り組んでいいんです。ここに、プロジェクトの自由さがあります。自由というのは楽しくていいですが、別の観点から見れば、自分で考えて、戦略的に進めなければ、ちっとも前に進まないということがあります。

そして実は、この構造はゲームと似ています。ゲームは、クリアという明確な目標に向かって、プレーヤーは自分で好きな戦略を立て、中期目標を設定し、好きなように取り組みます。ゲームの要素をゲーム以外のことに応用することをゲーミフィケーションと言いますが、このプロジェクトの場合も、ゲーミフィケーションの要素があると思っています。もちろん、ゲームのようにやることを推奨している訳でも、プロジェクトがゲーミフィケーションの恩恵を受けていると言いたい訳でもありません。ゲームとの類似点を探ることは本題から外れますから詳しく言及するつもりはありませんが、ゲームに私たちが学ぶべきこと、それは、あの熱中の仕組みです。

ゲームが好きな方は良く分かると思いますが、ゲームはどれだけやっても飽きませんし、熱中しますし、楽しいですし、そして、自分のやり方で好きなように取り組むことができます。しかし、基本的にはゲームのクリアという大目標に向かって、取り組んでいるわけです。このゲームの熱中の仕組みはプロジェクトに取り入れるべきです。そして本来のプロジェクトのあり方、自分のやりたいことをプロジェクトにし、そのプロジェクトの遂行に専心する、そんな環境が構築できれば、人は熱中するはずです。これはゲームの仕組みと同じです。

ここまでプロジェクトという活動をメタ的に説明してみました。なぜプロジェクトが活動の方法として、さらに教育方法論として意味があるのか、その一端をお分かりになっていただけたのではないかと思います。

プロジェクトのその他の利点については、次のセクションでお話ししたいと思います。

2. なぜ「プロジェクト型」が有効か?

今セクションでは引き続き、「プロジェクト型」で取り組んだり、学んだりする意義、さらに言えば、プロジェクト型のメリットや、その鍵となる概念についてお話しを続けたいと思います。前回は、プロジェクトの特徴の一つである、プロジェクトの遂行にコミットすることがもたらす様々な利点についてお話ししました。その際、ゲームにおける熱中の仕組みとの対比も、ゲーミフィケーションという言葉を用いて紹介しました。

今回、プロジェクト型のメリットの2つ目からお話ししようと思います。これは、抽象的に言えば、「学びの有機化」と言えると思うのですが、「持てる技が増えて、学びの好循環が起こる」という点をお話ししたいと思います。第1の利点である、プロジェクトに専心することによって、私たちは、プロジェクトの達成という大目標に向かいつつも、その道筋は自由に決めて良いこと、自分が好きなところから、得意なところから、やってみたいところから取り組んで良いこと、言わば、プロジェクトは、取り組み方についてもプレーヤーに大きな裁量があることを、「中期目標の自由度」という言葉で説明しました。実はこれは、別の観点から見れば、プラグマティックな物事の取り組み方、具体的にはローティの基礎づけの否定の議論にも通じます。つまり、世の中は何も基礎積み上げ型ばかりではないこと、基礎から応用に向かって、一つ一つ、興味も湧かないことをこなさなければ目的が達成できないわけでは、決してないことを示すものです。

そして、また別の観点から見れば、これは自己肯定感の醸成にも役立ちます。誰でもそうですが、自分が不得意なこと、苦手なこと、できれば避けて通りたいことばかりを強いられ続けたら、私たちどうなると思いますか。どんどんみじめになるに、情けなくなるに違いありません。不得意なこと、苦手なことについては、私たちは大きな顔をして、人に教えてあげたり、そこでもって自分を活かすことは極めて難しいわけです。自分ができない範疇のことは、どうしても、人に助けを求めることになります。教えてもらうことになります。一方的に受信者にならざるを得ないんです。こうした、受信ばかり行うこと、受け身だけのコミュニケーションを取り続けることは、コミュニケーション論的に見ても、フェアではなく、健全ではありません。そんな中、プロジェクトでは、中期目標を自由に設定し、自分がやりたいこと、得意なことから取り組むことができます。実はゲームも全く同じなんですが、できることから取り組めます。ある意味でやりたくないことはやらなくてもいいんです。少なくとも後回しにできます。するとどうでしょう。私たちは惨めになることがないんです。惨めになるどころか、自分ができることを改めて実感することができますので、むしろ自己肯定感が高まります。だからやり続けたくなるんです。熱中するんです。

第2の利点である、「持てる技が増える」とは、まさにこの循環をさらに後押しするものです。できること、得意なことをやり続けることによって、あるいは、できそうなこと、やってみたいことをやり続けることによって、よりできるようになります。できることが増えます。ゲームで言ったら、レベルアップするんです。使える魔法が増えるんです。使える必殺技が増えるんです。そして、使えるようになった新たな知識やスキルは、直ちに、現在取り組んでいるプロジェクトに活かすことができます。つまり、プロジェクトは、学びや取り組みの目的がかなりはっきりするため、何のためにやっているのかが分かりやすいんです。そして身についた知識がさらにプロジェクトの遂行に役に立ち、そしてさらにできることが増えていく・・・。という、実感を伴った成長ができるため、楽しくなるんです。はまってしまうんです。熱中するんです。もちろん、明確なクリアという状態、すなわち明確なゴールが存在するゲームと、本来、終わりがなく、発展的に展開し続けるプロジェクトがそのままイコールと考えるべきではなく、その点は注意する必要があると思います。しかし、プロジェクトの遂行のために持てる技を増やし、増えた技は直ちに使うことができる、これは何もスキルだけでなく、人との繋がり、理解者の拡張においても同じことが言えます。プロジェクト遂行のために仲間を増やしたなら、増えた仲間は直ちに自分を助けてくれます。プロジェクトに取り組めば取り組むほど、自分の範囲が広がり、だんだん手応えを感じられるようになり、自信さえついてきます。こうした好循環を引き起こすことができる仕組みこそプロジェクトです。

3点目。これは、プロジェクト型で取り組む際のポイントにもなってくるのですが、プロジェクトに取り組む時、その場にいる他人、それは教室であればクラスメートになりますが、彼らの存在の意味論が変わってくるという点です。これは私たちがプロジェクトによる教育に携わってきた経験から申し上げますが、プロジェクトによる教育や実践に成功するポイントは、全員が実施することです。何か一部には、プロジェクト型の教育や実践が、基礎や一般的なレベルを終了した、より高次の、もしくはレベルが高いもので、一部の基準をクリアした者のみが取り組むことを許されるような、そういったプレミア的なものだとされる場合があります。間違っています。プロジェクトは常に行うものです。そしていきなりやるものです。小学生にはちょっと難しい、中学生にはまだ早い、新入社員にはまだできない、そんなことはありません。繰り返しますが、プロジェクトはいきなりやるものです。そして全員がやるべきものです。はじめからうまくやろうと思うからいけないんです。失敗しながら、模索しながら、自分のプロジェクトのやり方、進め方を見つけていくことがとても大切です。プラグマティックに考えましょう。

こうなってくると、初めから、全員がプロジェクト持ち、あるいはプロジェクトをゼロから立ち上げて取り組むことになります。言わばいきなり本番なわけです。練習している暇はありませんし、練習と分かった時点でそれはフィクションになります。白けます。真面目に取り組んでいる人をからかうようになります。しかし、本番であれば話は別です。みんなやっているわけです。みんな不安なわけです。答えがあるわけでもなければ、マニュアルやお手本があるわけでもありません。だからこそ、周りがその必死さ、真剣さを共有できるんです。同志になるんです。足を引っ張り合う仲間から、連帯して見守り、助け合う仲間に変わります。雰囲気も変わってきます。重要な点だと思いますからもう一度言いますと、プロジェクト型の取り組みは、学校であれば例えば最高学年の最後に取り組むような、卒業研究的なものにしてはいけません。卒業研究はもちろんあっていいのですが、それに初めから取り組むんです。卒業研究のためのごっこ、前哨戦ではないんです。常に本番であるという意識が、オーセンティシィティ、正統性を生み、モチベーションを生みます。焦りますし、緊張しますし、悔しくなりますし、ドキドキします。それがいいんです。プロジェクトは言わば発信の作業でもあります。受信に比べ発信はその何倍も心理的にも負担を伴います。発信に自分自身が従事し、プロジェクトの遂行に自分自身が主体的に関わることが、物事へ本気でコミットできるようになる秘訣です。

4つ目にプロジェクト型の評価についてお話をしたいと思います。あくまで理論上ですが、プロジェクト型で学習や実践を行う限り、全員が一番になれます。そして、もともとの能力の高い低いに関わらず、全員が手を抜くことができません。なぜなら、プロジェクトの成果に天井はないからです。そして、先に指摘した、同志としての連帯意識は、行き過ぎた競争関係を解消します。足を引っ張り合う代わりに、切磋琢磨します。心地よい緊張感の中で、それぞれが責任を持ってそれぞれのプロジェクトに取り組むんです。もちろんこれは理想論でしかありませんが、しかし全くの夢物語というわけでもありません。プロジェクトをした方が学ぶんです。キルパトリックに対する批判は、誤解であったと私は信じています。

さて、こうして述べてきたプロジェクト型のメリットですが、最後に、皆さんがプロジェクトに取り組む際に、おそらく参考になるであろう、一つの考え方についてお話ししておきたいと思います。それが、「クラウドの知恵」という概念です。「クラウドの知恵」と聞かれてお分かりになる方もいらっしゃると思いますが、その対極にある概念がラプラースのデーモン、ラプラスの悪魔と言われる考え方です。まずはこちらから説明したいと思います。

ピエール=シモン・ラプラス(1749-1817)とは、18世紀後半から19世紀初頭に活躍した、フランスの物理学者であり、数学者であり、天文学者です。いわゆる近代ヨーロッパによる近代思想が確立したその地で、最大の拠り所は、科学という思想でした。科学によって、つまり当時の数学や物理学という、論理的に整合性のある、客観的な学問によって、この世の様々な仕組み、法則がどんどん明らかになっていくんです。ラプラース自身も、確率論や運動理論について数多く解き明かし、この世界の解明に貢献しました。どうでしょうか。皆さんもそんな時代のことを考えてみて下さい。科学という、いわば万能なツールを手にした人類が、あたかもこの世を創り賜うた神であるかのように、次から次へとこの世の仕組みを明らかにしていくんです。そこでラプラースはこう考えました。このまま人間が、科学によってこの世を解き明かして行ったら、いつかは神のように、この世のありとあらゆることを把握できるのではないか、この世の因果法則の全てを、いつの日が知ることができるならば、私たちは、未来すら完全に予測することができるのではないか、こういった考えです。いわゆる「決定論的」な考え方であり、科学万能主義に基づいた考え方です。科学、それに基づく科学技術によって、今もなお大いに恩恵を受けている現在の私たちからしても、「確かにこういう考え方もできるな」と思うところもあるのではないでしょうか。

こうして理論上、あくまで仮定として想定されたのが「ラプラスの悪魔」だったんです。さて、21世紀になった現代、ラプラスの悪魔は誕生しましたか? ラプラスが悪魔を想定してからかなりの年月が経ちました。その間、科学技術は目覚しく進歩したはずです。どうでしょう? 結論を先に言うならば、ラプラスの悪魔はいなかった、もしくはラプラスの悪魔は死んだと認めるべきです。なぜなら、科学は万能ではありませんでした。一つの見方でしかないことが、20世紀に証明されました。本講座は科学哲学を論じるものではありませんので深入りはしませんが、例えば、私たち人間は、ありとあらゆる全知全能の知識を手にしたでしょうか。確かに人類が持つ、知識の総量、解明された分野の数はすさまじいものにのぼると思います。Wikipediaを見て下さい。人類が成し得、記録した百科事典は、ラプラースの時代には想像だにできなかったはずです。しかし、この世界は、未だ全く解明され尽くしてはいません。例えば、私たち人間の心は解明されましたか? 確かに分かってきたことは多くあります。しかしその一方で、分からないことの方が圧倒的に多いと言うことが、むしろ明らかになってきました。そして、Wikipediaが一番分かりやすい例ですが、私たちは、もはやWikipediaの全ページを読み、把握することはできません。

その一方で、Wikipediaのページ数は毎日増え続けています。つまり、かつての百科事典のように、世界のありとあらゆる物事を集積し、知見を集め、それが人類の知の集大成であると想定することそのものが間違っていたんです。私たちは全知全能でもなければ、科学も一つの考え方でしかありません。科学は確かに私たちの生活の多くを便利にはしてきましたが、幸せにはしてきませんでした。インターネットというツールは、もはや我々が、中央集権的に、何かをコントロールしたり、全て把握したり、制御したりすることが不可能なことを示唆しています。私たち一人一人の能力には限界があり、例えば私たちが持てる記憶の量も、もはやUSBスティック1本が持てる記憶量には敵いません。ラプラスの悪魔はいないんです。人間に全知全能性なんかないんです。その代わりに私たちが時代を経て気づいたことは何か、それが「クラウドの知恵」です。

次セクションではこの「クラウドの知恵」からお話を始めたいと思います。

3. プラグマティックなプロジェクト論

前セクションはクラウドの知恵の前段階として、その対極にある「ラプラスの悪魔」についてお話ししました。今回は、本題のクラウドの知恵についてお話ししたいと思います。

クラウドとは、この場合、直訳的には「群衆」という意味です。普通の人々という意味です。そして、クラウドの知恵に込められた核心的な意味は、どんなにすごい一人よりも、つまりラプラスの悪魔よりも、力を合わせた群衆の方が強いという意味です。前セクションでもお話ししましたが、人類は、時代的な経験を経ることで、このことを学習しました。私たちはラプラスの悪魔にはなれないんです。つまり、どんなに頑張っても全てを極めることなんかできないんです。世界中の誰にも負けない専門分野を2つも3つも持つことは不可能ですし、誰にも負けないと思っていてもどんどんすごい人は出てきます。1つの分野ですら極めることは不可能です。なぜなら、人間の認知能力や様々なキャパシティには限界がありますし、世界の知は静的で動かないものではなく、動的でダイナミックに変化します。全てを捉えることは不可能です。

クラウドの知恵が一番分かりやすいのは、レオレオニという作家によるスイミーのお話しです。皆さんも絵本や小学校の教科書で覚えておられる方も多いと思います。一匹一匹の魚は小さくて、大きな魚には決して勝てないと思えても、その魚がみんなで集まって力を合わせれば、大きな魚の大きさよりももっと大きくなることができます。そして、たとえ目の前にさらに大きな魚が現れても、今度はもっともっとたくさんの仲間を集めて、もっと大きな魚の大きさになれば、決して負けません。これこそクラウドの知恵の真髄です。これは何を意味するでしょう。

私たちはこう考えています。私たち一人一人は、そんなにすごい人間である必要はないんです。ましてや、全部ができる必要なんかないんです。大事なことは、自分がすごくなることではなくて、言い換えるならば、なれるはずもないラプラスの悪魔を目指すことではなくて、すごい人をいかにたくさん知っているか、すごい人といかに友達であるか、そして、目的に応じて、もっと言えば、プロジェクトによって、それに関係するすごい人を自分が集めてきて、みんなに助けてもらいながら、みんなで力を合わせながら、そのプロジェクトに取り組む、そのリーダーシップが取れる、そのコーディネーションができる、そんな能力こそが、むしろこれからの時代、そしてプロジェクトを行う上で必要になってきます。

あくまで仮定の例として言いますが、極論を言えば、例えば国家試験があります。国家試験に受かるためには、クラウドの知恵で考えると、皆さん自身が受験する必要なんかないんです。むしろ大切な能力は、いかにその国家試験に受かりそうなやつを自分が知っていて、その人に替え玉受験をさせるかという能力の方が、単に自分が試験に受かるだけの能力を身につけるよりも、はるかに大切だと言うことです。もちろん半分冗談で言っていますが、半分は本気で言っています。一人のスーパースターよりも、普通の人が集まった方が強いんです。

インターネットはまさにこれを実証します。一人がどれだけ優れていようと、全部が分かるわけではありません。当たり前です。みんなが、世界中の人が協力した方が、高いパフォーマンスを発揮できることはもはや明らかです。だから多様性がいいんです。いろんな人が協力した方がいいんです。その方が潰しが効くんです。もうソリストはいりません。一人一人はどうだっていいんです。大事なことは、人と力を合わせて何をするかです。そして自分がそのプロジェクトをデザインするんです。リーダーシップといっても、サーバントリーダーシップという言葉があるように、「俺についてこい」ばかりがリーダーシップではありません。

そして、自分が全部できないことを素直に認める必要もあります。教えてもらう必要もあります。助けてもらう必要もあります。お高くとまっていたら何もできない時代です。行動することが必要になるんです。「三人寄れば文殊の知恵」と言います。昔から日本人はうまく言ったもんだと思います。しかしその一方で、「船頭多くして船山に上る」とも言います。しかし、クラウドの知恵の立場からしたら、山に登ったっていいんです。通常では考えられないような、何か面白いことができるわけです。ダイバーシティによる、雑多な、雑音が、騒音が、不揃いが、クリエイティビティ、イノベーションを育てます。同じような価値観で、統制され、把握され、規制されているようでは、それは一見整然として気持ち良いかもしれませんが、そこからは面白い動きは起きません。言わば予定調和の世界です。「クラウドの知恵」、是非皆さんも自分なりに考えてみて頂きたいと思います。

さて今セクションでは、次に、哲学としてのプロジェクトのことを考えてみたいと思います。既に紹介したアメリカの教育哲学者であるキルパトリックは、プロジェクトを「社会的環境において展開される専心的目的的活動(wholehearted purposeful activity in a social environment)」と定義して、これを「価値ある生活(worthy life)」の構成単位としました。そしてプロジェクトにおける活動とは、「全霊を傾けているということ(wholesouledness)」、「継続する傾向性があるということ(tendency to lead on)」、そして「多様性があるということ(variety)」、これら3つが条件になると述べました。さらに、フランスの哲学者のジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Charles Aymard Sartre 1905-1980)は、「人間は・・・第一に主体的にみずからを生きる投企(とうき)だ」と述べました。「投企」とはまさに英語でいうところのprojection、projectであり、「未来に向かって自らを投げる」ことを意味します。これは実存主義を主張する彼の哲学の核心をなすキーワードの一つですが、プロジェクトの一つの重要な特徴を説明しているとも思います。そしてサルトルは、アンガージュマン、つまり参加せよということですね、彼自身も積極的に社会活動に参加しました。

つまり、この世の中に対して、私たちはただ待っているだけではいけないんです。ただ考えているだけでもいけないんです。積極的に自分自身を、投げるんです。発信するんです。それこそ、自分らしく生きるということなんだと思います。皆さんいかがでしょう。皆さんにはプロジェクトがありますか。そのプロジェクトに取り組んでいますか? 正直言うと、まだまだ自分には余力がある、自分のためにも社会のためにも、まだその余力を使えていない、持て余している、そんな方も少なくないのではないでしょうか。チャンスです。そして、一人一人が、自分ごととして、マイプロジェクトを立ち上げ、活動することが期待されています。自分自身が、一生をかけて取り組んでいきたいことって何でしょう。自分自身が本当に引っかかっている問題意識ってなんでしょう。先ほども言ったように、全部初めからできる必要なんてありません。自分が全部できる必要もありません。しかし、自分がゴールとするプロジェクトの終局的な到達点に向かって、着実に動きはありますか。遠くてもいいですから、関連することをやっていますか。是非、PEPをきっかけに、自分がやりたいこと、やりたかったことを素直に考えてみて頂きたいんです。そして、全員が同志となって、それぞれが活動しましょう。協力し合いましょう。

PEPを受講されている方一人一人が、本当にマイプロジェクトに取り組み、それぞれが課題だと思う問題が解決されていったら、日本は途端に変わります。世界も変わるでしょう。嘘を言っているわけではありません。誇張でもありません。本気で皆さん一人一人に世の中を変えて頂きたいと思っています。一つ一つはたとえ小さなプロジェクトでも、それが同時多発的にあちこちで起これば、世界なんてあっという間に変わります。変えていいですし、変えられるんです。変えたいと思ったことは変えればいいんです。どうか私たちの意図を汲んでいただき、考えてみて頂きたいと思います。

もちろん今プロジェクトを持って、どんどん活動されている方もいらっしゃると思います。しかし、それでも考え続けて欲しいんです。このまま続けていったらどうなるんだろう、自分の理解者は増えるんだろうか、誰が助かって、誰が喜ぶんだろう、どうやって知ってもらおう、考え続ける必要があります。そしてその考えをアクションに移していく必要があります。もう1点、プロジェクト論は、プラグマティズムの哲学と親和性があると私たち自身は考えています。プロジェクトとプラグマティズムを関連づけて、少し分かりやすく話をしてみたいと思います。

プラグマティズムは「妥協上等」です。妥協することは全く悪くないと考えます。なぜなら、この世が理想通り行くことなんかないからです。ですから、理想と現実との間にある「差」を嘆いて、それで何かの役に立つんですかということです。例を挙げると、帰国子女羨ましいな、自分もああやって小さい時に外国に住んで英語を身につけてしまいたかった。そうすれば今はペラペラだ。しかし自分の親はそんな仕事でもなければ、そんなお金もなかった。だから自分は日本の学校教育で英語を勉強するしかなく、それが今の自分の英語力だ・・・。自分には環境がなかった、というものです。しかし、明らかなように、嘆いたって何も変わりません。それは、私たちがどんなに優れた人間でも、過去は変えることはできないからです。過ぎ去ってしまったことについては今更どうこうすることなんてできないんです。できることは何かと言えば、今を変えることです。今を変えることによって未来を変えることです。そのためには妥協もやむを得ません。妥協という言い方が良くなければ、割り切るんです。断ち切るんです。仕方がないじゃありませんか。何をブツブツ言ったって、今の自分しかないんです。今の自分で勝負するしかないんです。大したことない自分かもしれませんが、それでも何もなくは無いわけです。そして、大したことないと自分は思っていても、みんながそう思っているとは限りません。あの人のようなペラペラ話すネイティブのような英語を話したいなと思っていたその人は、あなたのような日本語を話したいと思っているかもしれないじゃないですか。嘆くことによって、私たちは思考がどんどんどんどん負の連鎖に入ります。どんどん惨めになります。情けなくなります。何とかその心の隙間を埋めようと、人から受信すればするほど、皮肉にもそれは状況を悪化させてしまうんです。

妥協しましょう。無理に求めるのをやめましょう。そして、負の連鎖を強制的に断ち切って、発信にモードを変えましょう。そして行動しましょう。小さなことでも良いですからできることを増やしましょう。成功体験を増やしましょう。小さなことでもいいんです。そうして、自分が拠って立てる領域を拡げていきましょう。

最後に、プラグマティズムにおける妥協とも関係しますが、理念倒れ、大いに結構です。その都度修正していけばいいんです。やりながら直していけば良いんです。もっと言えば、やりながら何とかなっていけば良いんです。初めからうまくいかせようとか、失敗を恐れてはいけません。最後に1回だけ成功すれば、それまでの失敗は全てサクセスストーリーになります。

そして、プラグマティックに考える限りにおいて、身のこなしがはやいことは決して悪いことではありません。「どうやらこれは自分には向いてないんじゃないか」、「このプロジェクトはこの先続けてもおそらく限界があるな」と思ったら、やめたら良いんです。変えたらいいんです。もちろん一つのことにこだわって、結果が出るまで辛抱強く取り組むことも素晴らしいことですし、重要なことです。コロコロコロコロ変えて良いと言いたいわけではありません。しかし、本当に脈がないならば、それに費やす時間は無駄です。役に立ちません。役に立つことをしたらいいんです。前から取り組んできたし、お金も使ってきたし、というのは気持ちは分かりますが、それは観念論的発想です。余計なこだわりが、結果的に全てのブレーキになってしまっていませんか? あなたにとっては屈辱的な妥協であっても、他の人はそこまで気にしません。その代わり、できることを必死で行なって、それを増やし、どんどん次のステップへ向かっていった方が、結果的に皆さんが目指した到達点には近づくように思います。

いかがでしょうか。

4. 授業を生かした自分のための学び

今セクションでは、21世紀という時代的背景を踏まえた、私たちの人生としてのプロジェクトについて、皆さんとご一緒に考えてみたいと思っています。

インターネットは私たちの世界を変えました。私たちの当たり前を変えました。これは以前、ラプラスの悪魔のところでお話しした、近代思想の終焉とも関係しますが、インターネットという現代思想は、新しい価値観、新しい時代を創りつつあります。私たちはまさにその渦中にいますから、その違いや、時代的な断絶をなかなか感じにくいですが、しかし明らかに新しい考えが、価値が生まれています。例えばインターネットは、物理的な距離の概念を変えました。インターネットで繋がっている限り、地理的に近い、遠いはもはや意味がありません。また、インターネットの掲示板では、もはやその文章から、それを書いた人が男であるか女であるかを判明することはできません。男言葉、女言葉なんて、ネットの世界では古いんです。

別の例をお話しします。近代的な価値観では、といっても、これは、現代にも通じる法体系であったり、いわゆる常識であったりという意味ですが、例えば、覗きは犯罪です。露出狂ももちろん犯罪です。そんなことしていいはずはありません。しかしインターネットの世界はどうでしょう? もちろんメタファーとして言っていますが、積極的な個人の露出が見られませんか? 何でそんなこと不特定多数に見せるんだろうと思うような、そんな見ていて「痛い」と思うような露出がありませんか? これは何も芸能人の私生活だけではありません。個人のブログなどを見ていても、本来であれば「日記」として、誰かに見せるために書くのではない、極めて個人的な経験や思いを綴ることを、世界に向けて発信していませんか? そして大事なことは、私たちは、そうした露出に対し、なんだかんだ言って見てしまっていませんか? 覗いていませんか? つまり、もちろん、現代の社会通念上は、覗きも露出狂も許されませんが、インターネット上の価値観は、必ずしもそうではないんです。実は全く違う論理で、倫理で動いている可能性があるんです。

この他にも、インターネットには、中央や中心がありませんよね。アメリカが全部支配しているわけではないですよね。全体を統制したり、指揮者がいたりするわけではないんです。そしてこれから、私たちの想像を絶する、新しいサービスや、技術や、価値が、インターネット上で展開されていくでしょう。クラウドの知恵も、その一つです。

さて、ここまでお話ししてきて、私たちが何を申し上げたいのかと言いますと、新しい時代、新しい価値観が生まれるのであるならば、「生まれる」と、受け身で捉えるのではなく、能動的に生めばいいんです。私たちが今、当たり前に思っていること、絶対変えられない、絶対変わるはずがないと思っている価値や考えも、変わり得るんです。例えば、私たちが当たり前だと思っている価値や枠組みは、その多くが明治維新以降の、近代のフレームで考えられたものです。同じ年齢、同じ学年で勉強する仕組みであったり、病気になったら医者にかかることであったり、行進するときに手と足を交互にすることであったり、英語という言語が世界を席巻していたり・・・。これらはたかだか日本では、200年、300年の歴史です。もちろん、200年、300年は決して短くはないですが、人類の歴史から見たらわずかな期間です。つまり、今の価値観も、皆さんを苦しめるような伝統やしきたりも、別に未来永劫絶対にそうだとは限らないんです。だったら、変えればいいんです。自分が変えていくんです。もちろん、初めは奇異な目で見られることもあるでしょう。しかし、そんなことを5年、10年とやっていたら、世界は変わってしまうかもしれません。

そして、インターネットというツールを使えば、これまで20年かかって変わっていたことが、たった1年で変わってしまうことさえあると思います。なぜか、コミュニケーションの密度が違うからです。回転数が違うからです。分かりやすいので恋愛の話をしますと、かつては、固定電話しかありませんでした。自分の好きな人と話をするにも、その人が両親と同居していれば、電話するのも一苦労です。しかし今は携帯電話がありますから、はるかに容易に直接話すことができますよね。また、SNSを使うことによって、「直接お話をする」というメディアを用いなくても、様々な形でコミュニケーションがやり取りできます。かつては1週間に1回、デートする時にだけ交わされていたコミュニケーションが、四六時中、様々な形で行われるわけです。つまり、たった3日で別れてしまうカップルも、それはそれだけコミュニケーションをしたからこそ、別れることになったんです。かつてのメディア環境だったら、1ヶ月、2ヶ月持ったかもしれません。つまり、それだけこれからの時代は、コミュニケーションが圧縮できるんです。変化のスピードを上げることができるんです。だからこそ申し上げたいことは、流行り廃りを追っているだけだったら、本当に虚しいことになります。コミュニケーションとして消費され尽くしてしまうんです。だからこそ、情報に受け身になってはいけないんです。自分が積極的に発信に関与して行くんです。過剰な謙遜はいりません。できないことよりもできることに着目しましょう。

本説明の全体を通して、そしてマイプロジェクトや、プロジェクト論の講義を通して、皆さんにお伝えしたい重要なメッセージの一つは、皆さん一人一人が、「大きな意味での人生のメタ物語を創造する必要がある」という点です。ストーリーを作ること、実はこれはとても大切なことです。ビジネスであっても、研究であっても、ボランティアであっても、社会活動であっても、そして私生活であっても、自分が行なっている行動を、大きなストーリーの中に位置付けることはとても重要です。なぜなら、人はストーリーに納得するからです。納得いくストーリーならば、人は説得されるからです。これはローティも強調していることです。何も私たちは論理や理性で動いているわけではないんです。それよりも、語るべき物語、ストーリーこそが、真の連帯につながるんです。

とは言え、誤解なきよう言いますが、ストーリーというのは何もはじめから存在しているわけではありません。マイプロジェクトとして、自分はこうこうこういう活動をしている、でもそれはまぁ、「好きだからやっているんだど・・・」別に、人に語れるような高尚な、すごいストーリーがあるわけではない。その通りです。サークルで取り組んでいるプロジェクトも、それは自分が担当になったからやらされているだけで、別にそんなかっこいい理由なんかない。その通りです。しかし、ストーリーというのは、作るものなんです。もっと言ったら、でっち上げると言ってもいいでしょう。プロジェクトなんて、好きだから、関心があるからやっているんです。その他、いろんな必要性に駆られてやっているだけです。しかし、それをそのまま他人に言ったってダメです。単なる自分勝手、自己満足にしか映りませんし、決して誰も共感してくれないでしょう。だからこそストーリーを作る必要があります。物語にする必要があります。自分が取り組んでいるプロジェクトが、どのような社会的意義があるか、聞いている人の生活にとっても意味があるか、どのような意味でプラグマティック、役に立つのか、そうしたストーリーが必要なんです。作ればいいんです。そしてこのストーリーは、他人を説得させる、納得してもらうだけではなく、皆さん自身に対しても作り上げる必要があります。これはとても大切な視点です。人生のメタ物語、先程述べましたが、ここに関連してきます。

私たちが取り組むプロジェクトは、常に、自分が「本当に」やりたいことを、そのままズバリできているなんてまずありません。もしできているとしたらそんな理想的な人生はないと思います。実際は、たまたま自分が取り組んでみたい内容に「近い」チャンスを与えられたから、とりあえず何かやろうと思ったから、助成金のテーマがそれだったから、やれと言われたから、やる羽目になってしまったから・・・という理由で、プロジェクトに取り組む場合がほとんどだと思います。しかしそうした場合でも、皆さんいかがでしょうか、自分が本当にやりたいことと、現在自分が従事しているプロジェクトと、強引に言ったら何か関係性はないでしょうか。あえて言えば、現在自分が取り組んでいるプロジェクトのその先の先の先の先に、自分が本当に取り組んでみたいプロジェクトに繋がってはいないでしょうか。それが重要なんです。そういう見方が重要なんです。何度も言いますが、世の中理想通りにはいきません。私たちは様々な制約の中で生きています。自分の今やっていること、取り組んでいること、働き先でも、バイト先でも、所属している団体やサークルやネットワークの中でも、それを、自分の人生という大きなプロジェクトの中の、一つの歯車と考えるんです。歯車と考えた時に、それがどんな意味があるのかと考えるんです。意味がないんじゃないんです。意味づけるんです。強引でも何でもいいんです。絶対関連するはずです。少なくともかすっているはずです。そのようにして、一つ一つの活動を、マイプロジェクトを、自分の人生に位置付け直して見た時、皆さんの一つ一つの生活が途端に有機的につながってくるんです。これはとても素敵なことですし、途端に人生楽しくなります。やはり軸は自文化中心主義、自分のためでいいんです。自分の人生を豊かにすることが第一義的な目的でいいんです。そのような意味でガツガツしたらいいんです。

ここまでメタ物語の重要性について、お話してきましたが、ここからはそれを実現する上でのポイントを、5つほど指摘しておきたいと思います。1つ目は、「使い回す」という概念を再考しましょう。これは今回のセクションの冒頭でお話した、常識的な意味を疑う一つの例でもありますが、通常、使い回しとは、例えば大学の授業でしたら、Aという科目で書いたレポートを、Bという科目でも使い回す、と言ったような、文脈にもよりますが「ずるい」という意味論が付いて回ることがあります。使いまわして賢いという価値がついたとしても、安く済ますであるとか、手間や努力をショートカットしたような意味がついてまわります。しかし、ことプロジェクトについて言えば、積極的に使いまわしたら良いと思っています。つまり、どんな活動に従事するにしても、自分の心の中には、常にマイプロジェクトがあって、やっていることは全く別々でも、全部自分のマイプロジェクトに関連づけるんです。使い回すんです。今セクションのタイトルである「授業を生かした自分のための学び」とは、まさにそういうことです。一つ一つの授業も、社会活動も、講座も、書物も、皆さんにとって別々に存在するものではないんです。全部関連づければいいんです。

そうすると、以前お話したゲーミフィケーションです。様々な授業、活動の接点が増えれば増えるほど、全て、マイプロジェクトに役立っていきます。使い回せば使い回すほど、どんどんマイプロジェクトが強化されていきます。様々な経験値、知識、考え方が、プロジェクトの遂行という目的のもとに積まれていきます。生活のための仕事だ、お金を得るためのアルバイトだと、マイプロジェクトとそれらを、完全に切り離すべきではないんです。もちろん、そんなこと言ったって、単に仕事ではルーティーンをこなしているだけだし、別に創造性もなければ、自分が何か提案できる立場にいるわけでもない、確かにそうかもしれません。

しかし、プラグマティックに考えて下さい。本当にそこから得るものはないんでしょうか。「受領は倒るるところに土をもつかめ」、転んでもただで起きちゃダメなんです。常に自分の土俵で相撲をとって、自分にとっての意味を何としても掴み取るんです。どんなに無益で無駄な物事に思えても、そこから何を見出すことができるか、それ自体が、皆さんの能力です。

5. プロジェクト論の実生活への応用

今セクションでは、前回に引き続き、メタ物語につながるライフロング・プロジェクトを実現する上で、おそらく役に立つであろうポイントについてお話ししたいと思います。前回はその1点目として、「使い回す」と言うことが、実はとてもいいんだ、重要なんだという話をしたと思います。

2点目として、「興味を持つことの大切さ、教えてということの大切さ」を挙げたいと思います。どちらも説教じみていて、当たり前に思うかもしれませんが、実はこれもとても大切な点だと思っています。なぜなら、「興味を持つということ」、そして「教えてと言うこと」は、どちらも日本人は決して得意としないからです。苦手だと言っても良いかもしれません。もちろん日本人と一括りに言うことは、ステレオタイプですから慎まなければいけませんが、多くの日本人は、本当に得意ではないと思いますよ。私自身も得意ではありません。要するに、なぜ新しいことになかなか興味が持てないか、なぜ「教えて」と言えないかと言ったら、我々は、どうしても自分の得意なところで勝負しようとしてしまうんです。自分が知識があること、経験があること、能力があるところで行動しようとしてしまうんです。ある意味で分かりやすい習性ですが、やはり私たちが、何をするか、何を行動するか、ということよりも、何であるのかという「状態」や「所属」にこだわってしまっている一つの証左だと思います。

野球をやったり、サッカーをやったり、野球を見たり、サッカーを見たりするのが好きな人は、根本的なところではスポーツが好きなはずなんです。ところが、自分の好きなスポーツしか見ない、やらない。それは自分が得意だからです。よく知っているからです。裏を返せば、大きな顔ができるからです。いい格好ができるからです。もちろんその道を極めるなら話は別ですが、やはりこれではあまり大きな成長や、視野や知識の拡大は限られたものとなってしまうでしょう。興味を持ちましょう。自分の知らないこと、よく分からないけど、何か面白そうだな、知ってみたいな、と思うことに対し、積極的に学ぶ姿勢を持ちましょう。そして、知っている人、詳しい人、できる人に、ためらわずに教えてもらいましょう。恥ずかしがらず、「教えて」と言ってみましょう。

なぜこのように言うのか、これはコミュニケーションにおいて、「興味を持つ」ということがとても大きな意味を持つからです。というのも、先ほどの話の続きになりますが、多くの日本人に比して、海外の人は、人に興味を持つのが得意です。人に興味を持ちましょう。関心を持ちましょう。なぜなら、自分に興味を持ってもらって、関心を持ってもらって、「教えて」って言ってもらって、嫌な気持ちになる人がいますか? ストーカーのような極端な例を除いて、自分に興味を持ってもらうことはやっぱり嬉しいものです。コラボレーションは、イノベーションは、異分野が結合することでダイナミズムが生まれます。パフォーマンスが高まります。知らないことは恥ずかしくも何ともありません。しかし、ただ知らない、「教えて」では、自分が惨めになるだけですから、自分の知っていること、自分の軸はぶらさず、あくまで自分の知っていることと、今教えてもらっていることをぶつけるんです。皆さんが得意なこと、知っていることに関しては、皆さんは専門家です。そう思っていいんです。その視点から、新しいこととの接点を考えるんです。そうすると、必ずしも教えてもらうばかりではなくなるはずです。皆さんも意見できるはずです。皆さんの専門的な知見から、知らないこととの接点、切り口が生まれてくるはずです。そうすると、教える人も学ぶことができます。一方向じゃなくなるんです。一方的に発信だけしても教える側も面白くありません。こうやって学び合いが生まれます。繰り返しますが「他人に興味を持ちましょう」、「自分の得意なところだけで勝負するのをやめましょう」。それだけで、皆さんの地平は大いに拓けます。

3点目は、1点目、2点目とも関連しますが、「一つ一つの機会に、チャンスに、能動的に関わる」ことを挙げたいと思います。なぜこれを言うのか、人生は有限だからです。1日は24時間しかないからです。限られた24時間で、私たちは日常生活をこなし、時間を見つけて学び、そして自分の考えをまとめたり、発信もしなければいけません。どうやってやりますか? もちろん、本1冊を1分で読むスキルを身につけたり、睡眠を1日1時間だけにして、空いた時間を作れればいろいろできるでしょうが、誰もができることではありません。だったら、一つ一つの日常活動を、全てマイプロジェクトと関連づけるんです。同じテレビCMを見ても、ただ受け身で見るのではなく、自分ごと、マイプロジェクトと関連させて見るんです。テレビドラマだってそうです。飲み会だってそうです。今日バイトでたまたま一緒になった人との出会いもそうです。このような意味では、他人との話もとても重要です。なぜなら、他人は自分がやっていない多くの経験、知識を持っています。

分かりやすい例で言えば、趣味がそうです。人は自分とは異なった趣味を持っています。それを教えてもらうことで、自分のプロジェクトの経験や知識とするんです。ただ単発で、それぞれを別個の知識としてしまってはダメです。関連づけましょう。考えましょう。仕事はブラックではいけませんが、マイプロジェクトについてはブラックでいいんです。四六時中考え続けましょう。お風呂に入っていても、寝ている時も、考え続けて、ふと新しいアイディアが思い浮かぶような、そんな生活をしましょう。もちろんあえて過剰に言っていますので、しっかり休むことも大切ですが、そのためにも、自分の好きなことをやることが大切なんです。好きなことだったら嫌になりません。どんなに考えても、もっともっと考えたくなるでしょう。

4点目は、利他的になりましょう。利他とは他人のために自分が頑張ることです。経営哲学として、稲盛和夫氏もこの点は非常に強調されています。他人のプロジェクトに関心を持ち、何とかしてあげましょう、自分に何か有益なことができないか、考え、行動しましょう。ここで疑問を持たれる方もおられるかもしれません。というのも、私たち一貫して、自分のためのプロジェクト、自文化中心主義、自分に確固とした軸を置くことを述べてきました。利他的とはこれに矛盾するように思えます。これについては次のように説明することができます。

私たちの経験を言いますと、私たちは大学院に行って修士論文を書き、その後、さらに長い時間をかけて博士論文を書きました。博士論文は本当に大変でした。もうこんな頭を使うことは一生ないだろうと思うくらい頭を使いました。ところが、その後、大学の教員になって分かったこととして、あの博士論文の時の頭の使い方と同じくらいか、それよりも頭を使う場面があります。どんな時だと思いますか? それは、学生さんであったり、同僚の研究者のプロジェクトや研究発表を聞いている時です。なぜか分かりますか? 想像できると思いますが、これはただ聞いているだけではダメなんです。必ず発表の後に、質疑応答や、コメントの時間があります。例えば学生さんの発表の後ならば、それなりに気の利いたコメントをしなくちゃいけないわけです。もっと言うと、「あぁやっぱり先生のコメントはすごいなぁ」と思ってもらいたいという見栄もあって、実は必死になって聞くんです。そして考えるんです。

なぜ必死になるのか、それは明らかで、自分のプロジェクトじゃないからです。自分の研究ではないからです。誰だって自分のことは一生懸命になります。そしてよく知っています。発表では恥をかきたくないですから当たり前ですよね。しかし、こと他人のプロジェクトや研究となると、よく知らないわけです。よく知らないにも関わらず、5分とか、10分とか、25分とかで発表を聞いて、その短い時間の間にその内容を理解して、自分の知識や経験と照らし合わせ、ぶつけながら、自分の土俵でそのプロジェクトを考え、自分にしかできないコメント、自分ならでわの視点から質問をする、これは想像を絶する難しさです。ものすごく頭を回転させて、その回転数が短期的にものすごく高まっていることが、自分自身よく感じます。そうして、他人の発表を聞いた後は、実は、自分が一番よく学んでいることに気づきます。

大したことない発表なんてないんです。大したことないプロジェクトも絶対にありません。それは、自分にとって「大したことない」価値や意味しか汲み取れなかった自分自身の敗北です。ポジティブに考えましょう。前向きに捉えましょう。年齢や知識に関係なく、相手から教えてもらう姿勢、学ぶ姿勢を持ちましょう。そして大前提として、相手の発信に興味を持ちましょう。見下したり、大したことないと、初めからシャットダウンしてしまうことをやめましょう。利他は、他人のためにやっているようで、自分自身に役立つんです。当然、他人にも役立ちます。だったら一石二鳥じゃありませんか。利他的に活動すること。これはプロジェクトの遂行の上でも、大変重要な視点だと思っています。

最後のポイントです。皆さん、自身の専門を捨ててみましょう。肩書きを捨ててみましょう。自分の所属や状態にすがることを、一旦捨ててみましょう。私たちは自己紹介の際、ビジネスは典型ですが、肩書きが来ます。所属が来ます。私たちの世界では、学位が来ます。博士、教授、専任、所属大学と、これら全て「状態」でしかありません。別にこれらが、皆さんがこれから何をやってくれるか、その「行動」を、「プロジェクト」を一切保証してはいません。自分の名前だけで勝負することはできますか? 一切、自分の状態に言及せず、自分ができること、そしてやりたいことだけで、自己紹介ができますか? これはとても勇気のいることですし、難しいことです。しかし、この視点は忘れないで頂きたいんです。というのも、知識は変わります。ニーズも変わります。

例えば私たちの例を話してみましょう。私たちは立命館大学での大きな任務として、立命館大学の英語教育を行う使命を帯びています。そして大学英語教育の専門家としても発言しますし、授業も持っています。

しかし、私たちがどんなに一生懸命に英語教育に打ち込もうとも、はっきり言って、大学にいつまで英語教育が残っているか分かりません。AIによる自動翻訳の技術は驚くほどの進化を日々遂げています。いつまでも、大学の必修授業として、学生さんにわざわざ教室まで来てもらって、非効率な、私たち人間が教える形態が続くかどうか、甚だ疑わしいと言わざるを得ません。繰り返しますが、別に英語教員がサボっているわけではないんです。一生懸命やっているんです。しかし、一生懸命やっているからと言って、この先のニーズが保証されるわけではありません。この先の未来、大学という機関でわざわざ英語教育なんてやる必要がなくなった時、専門家面して、いつまでも人が行う英語教育の重要性に拘っているのは、はっきり言って、ただの抵抗勢力ですよね。

先述したコミュニケーションの密度の変化の通り、時代は変わります。どんどんその変化の速度は上がっています。その際、実は専門が邪魔になることがあるんです。本人がどれだけそれに誇りと熱意を感じていようとも、周りから見たら、変化に抗う、時代錯誤の、斜陽産業の、外野にしか見えないんです。誤解なきよう申し添えますが、それぞれの専門は、職業は、興味分野は、素晴らしいものです。だれもその尊さを否定するものではありません。しかし、その尊さと、今の社会に必要とされているかどうかは別問題です。積極的な自己展開が必要です。時に積極的に自己を解体しましょう。こだわりを捨てましょう。そして新しい自分の価値を積極的に作っていきましょう。

私たちは英語教員であるからこそ、あえて声を大にして言いますが、大学の英語教育は、いずれいらなくなると思います。なぜなら大して機能していないと思うからです。立命館大学であっても、私たちが行っている英語教育プログラムが、最後の最後まで残る自信はありますが、それでも最後は駆逐も止む無しと思っています。だからこそ、積極的に自己変革をしたいと思います。自分の市場価値を、これまでの代わり映えもしない英語教育とは、違うところで高めたいと思っています。そしてそうすることが、逆に自分の人生を充実させ、自分が成長できることにつながると思っています。

6. 超領域リベラルアーツの提案

今回は、最後のセクションとして、ここまで、キーワードとしてきたプロジェクト論を踏まえ、一つの提案をしてみたいと思います。それが、今セクションのタイトルでもある、「超領域リベラルアーツ」というものです。これは現在、立命館大学で新たに実現しつつある動きでもあります。

リベラルアーツとは、日本語に訳せばいわゆる「教養」となります。しかし、この教養という言葉は、どうでしょう、何か専門を簡単にしたものであったり、「広く浅く」いろんなことを学ぶであったり、ただ色んなことを知っている「物知り」という意味であったりします。何れにしても、いわゆるliberal artsという英語での意味に比べて、必ずしも「教養」という言葉が、深く捉えられているわけではないように危惧します。なお、これがいわゆる大学の教養課程であったり、教養科目となると、その傾向は残念ながら増してしまっているように思います。もちろん、日本の大学における教養教育改革は、昨今至るところで取り組まれています。先に述べたような教養の「狭い」意味論、「古臭い」意味論を壊して、新しい教養の概念、リベラルアーツの概念を積極的に構築しようと模索しています。

しかし、現状、あえて申し上げますが、教養教育、もしくは教養改革に従事している人は鼻息荒く活動的ですが、それ以外の、いわゆる専門科目を担当している大学教員からしたら、必ずしも教養に対する理解が進んでいるようには、私には思えません。私たち自身、21世紀の知のあり方、世界のあり方を考える上で、教養、もしくはリベラルアーツという概念は、一つの重要なキーワードになると思っています。なぜこのように言うのか、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、ここでスティーブ・ジョブズの言葉を引用してみたいと思います。

We've always tried to be at the intersection of technology and liberal arts.

アップルがどうして、時代を変えるような製品を次々に出していけるのかといったら、それはアップルのDNAとして、自分たちが、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に常にいようとしていたからだ、という内容です。実に含蓄のあることを言っていると思います。ラプラスの悪魔のところでお話しした通り、科学技術は私たちを万能にはしませんでした。科学には、技術にはむしろ限界があるということが、今世紀の人であれば、みんな分かっていることだと思います。

21世紀、つまり今世紀の諸問題の特徴とは何でしょう。井関利明氏は、それを超領域という言葉で表しました。超領域とは造語で、英語で言うならばtransdisciplinaryということができると思いますが、これも造語です。interdisciplinary、学際的という言葉は存在します。多くの分野や学問にまたがるという意味で、これはよく使われる言葉です。nationalに対して、internationalというのも発想は同じです。話を元に戻します。科学は、近代ヨーロッパがかつて世界を席巻したことで、一つの強い思想として未だに機能していますそして私たちは現に、科学、そして科学技術の恩恵にあやかっています。

ムーアの法則というものをご存知でしょうか。これは、インテル創業者の一人であるゴードン・ムーア氏が唱えた、「半導体の集積率が18か月で2倍になる」という業界の経験則です。これは実はかなり最近まで当たってきました。細かな内容は省きますが、一つの物事において、より性能を上げたり、それによってコストを下げたり、つまり効率性を高めたり、合理化を進めることは、実は前世紀までに徹底的にやられたんです。ほぼやり尽くされたと言ってもいいかもしれません。A地点からB地点まで移動する移動時間を限りなく早くすること、ディスプレイ画面を、より見やすく、大きく、性能を上げること、実はこういうことは、科学は得意なんです。つまり、単独の、一つの分野において、その内部での技術革新を継続的に行なっていくいことで、驚くほど性能を挙げることができてきました。つまり、一つの分野に、専門家がいて、その専門家が、自分の能力が及ぶ狭い範囲で努力することで「何とかなる」ことは、ことごとく何とかなってきたんです。これが20世紀まででした。ところが21世紀はどうでしょう。

実は今世紀は、「難問だけが残された」と言われることがあります。つまり、簡単な問題、一つの分野の努力によって解決できる問題は、ことごとくこれまで解決され尽くしてきたんです。そして21世紀は、一つの分野の革新だけではどうしようもならない問題、分野が多岐にわたる問題、まさに超領域的な問題だけが残されました。例えばどうでしょう。地球環境問題、宗教の問題、難民の問題、格差の問題、心の問題、生死の問題、教育の問題、文化の問題、倫理の問題、技術の問題、観測・測定の問題、エネルギーの問題、食糧の問題、災害の問題、機械(AI等)との共存の問題、病気・健康の問題など、実は私たちの生活にむしろ身近な問題が、一向に解決されていないんです。私たちの生活が、いかに一見小難しく見える高度な技術の問題よりも、はるかに複雑で、多層的で、単独の分野ではもはや手に負えないこと、そして20世紀では解決できず、21世紀に先送りされてきたことが分かると思います。現実は単純ではないということです。複雑に、考えられないほどの多くの変数が互いに作用し、それが非再帰的に、予定調和を伴わずに発生するんです。そして、残念なことに、これらの問題に対して、いわゆる各分野の専門家と呼ばれる人々は、「想定外」と言うしかありませんでした。我々人類は、こうした難問群に対して、「お手上げ」なんでしょうか。私たちはもうダメなんでしょうか?

そこでこれから大切になってくるのが、リベラルアーツだと思います。そして問題解決を実現する方法論こそがプロジェクトだと、私たちは思います。先ほどのジョブズの言葉からも分かるように、現実は全てイシューで動きます。問題で動きます。目的で動きます。分野や領域にわざわざ体系づけて動くわけありません。そうであるならば、勝手にここからここまでが自分の専門だと線を引くのは間違っています。線はあいまいなはずです。あるいはそんなもの「ない」とも思います。自分が得意とすること、よく知っていること、それを専門と呼ぶことはもちろん結構なことです。しかし、そんな専門に引きこもっていても、ちっとも問題は解決できません。交差点に立つんです。そして、専門の視点を大事にしながらも、あくまでも現実を見つめ、幅広い視点、複数の視点から、物事を時にミクロに、時にマクロに、時にメタに、時に具体的に考えるんです。その際、積極的に分野を越境し、横断し、単に分野と分野をつなげるだけではない、それを超えたところにあるものを、プロジェクトとして追求すること、そういった取り組みこそが必要になってくると思います。

もちろん非常に大きな話をしていますし、だったらお前がやってみせろ、と仰りたいかもしれませんが、私も答えがはっきりしないからこそ、皆さんと一緒に考えたいんです。根本のあり方を考えたいんです。

それが「超領域リベラルアーツ」に込めた願いです。ここまでお聞きになって分かると思いますが、私たちは何も卑近な、「文理は融合すべき」であるとか、オフィスの課と課、部と部を隔てる壁を取っ払って、風通しを良くしましょうとか、専門を二つ以上持ちましょうとか、そういった表面的な、ノウハウ的なことを言いたいわけではないんです。冗談抜きで、専門家面して、そこにこだわってことが済むようなやり方が、本当に機能しなくなってきたんです。繰り返しますが、私たち人類は、科学技術とそのための学問を発達させることで、かつての人類には想像すらできなかったような豊かな生活を手にしてきました。しかしそれは同時に、皮肉にも科学の力をもってしても解決できない、新たな、地球規模の諸問題を生み出し、それらは現在も深刻化する一方です。

必要なのは、具体的な解決策です。机上の空論、観念論はいらないんです。イシューごとにプロジェクトが立ち上がり、まさにラウンドテーブルで、ああでもないこうでもない、これをやってみようあれをやってみよう、とした取り組みをしなければ、地球そのものが持たないんです。あと100年後が保証できないんです。私たちの次の世代、その次の世代が相当悲惨な暮らしをすることになるんです。私たちは責任を感じるべきです。

立命館大学は、「超領域リベラルアーツ」を授業科目として展開しようと考えています。そしてこれが、従来の専門と教養という、どちらかというと専門の方が偉くて、教養は大したことない、といった価値観を転換していく一つの突破口にしていきたいと考えています。具体的にどう展開するのか、ここでは詳しくお話しする余裕はありませんが、是非皆さんにも積極的なご意見を頂けたらと思っています。

さて、そうした教育を実践していく上で、最後に、私から学びのスタンスについてお話をしたいと思います。私たちは機会があって、様々な若者に接するチャンスを得てきました。大学生に接することが確かに多いですが、それは立命館大学に限らず、国立大学の学生さん、そして高校生や中学生とも話す機会を得てきました。同様に、それは日本人だけではなく、海外の大学生や高校生とも接点を持つ機会に恵まれました。それを踏まえて申し上げますが、やはり日本の若者が、いつまでたっても先生から教えを乞おうとする態度、これは本当に問題だと思っています。先生は何か有用な知識をうまくまとめて、自分たちに授けてくれる、授ける先生がいい先生で、授けないような授業は意味がないとする態度が「当たり前」になり過ぎています。

もちろん、基礎としての知識の体系的習得の是非はあります。このような意味では小学生の学びと、大学生の学びは異なる可能性があり、小学生であっても知識を先生から乞うてはいけないというのは別の議論です。しかし、大学生になっても、あるいは社会人になってすら、人が何か自分のために知識を教えてくれる自分はただ待つだけで、積極的に取りに行こうとしない態度は本当に問題です。なぜなら、こうした思想の大前提には、物事には正解があって、模範解答があって、それを先生が教えてくれる、あたかも、範囲が決まっている中間テストで満点を取ろうとするかの如く、教育とは、ベストな解を教えてもらってなんぼだと思っている人が多過ぎます。それぞれの先生が、あたかも体系づけられた知識を皆さんに伝授する、皆さんはそれを受け取って自分の血肉とする、間違っています。先生はそんなにすごくありません。このプロジェクトについての一連の説明も一意見でしかないんです。別にありがたく、全部学び取って授かってもらうものでも何でもないんです。

皆さん、学びは自分でつかんでいくものです。百歩譲って専門家がいるとしても、その人が知っていることは、本当に特定の分野だけです。後は多少の知識を動員して、それなりに専門家っぽくしているだけです。何ら皆さんが引けを感じることはありません。どうか皆さん、対等に挑んでいって下さい。ポイントはプロジェクトです。目的的に取り組むことです。プロジェクトはまさに超領域的ですから、専門が一定機能しても、全て機能するわけではありません。誰もが貢献できる余地があります。ただし、その際、意見がぶつかることもあるでしょう。自分の思い通りにいかないこともあるでしょう。だから面白いんです。そんな世の中うまくいくはずありません。それこそプロジェクトの醍醐味であり、だからこそ、次はどうしよう、こうやってみたらいいんじゃないかと工夫を考えるんです。

あえて批判を覚悟でいいますが、いわゆる偏差値の高い人、頭がいいと言われる人に限って、日本の場合ですが、自分で学び取る態度を持っていません。人が体系的な知識を教えないと文句を言います。あるいは、できない理由を理路整然と並び立てるのがうまく、まずやってみることに対して否定的です。そのくせ偉そうです。皆さん、こんな人たちが社会を牛耳っていく、日本を牛耳っていくと考えたら、恐ろしくありませんか。ムカつきませんか。実質をいきましょう。現実を変えていきましょう。耳障りのいいことだけに惑わされないようにしましょう。そのためには、プロジェクトです。繰り返しますが、自分がすごくなくていいんです。いろんな人を巻き混んで、現状よりも少しでもより良い社会になったとしたら、微かでも、そんなことを、日本中の人がやったら、この国は変わると思いませんか? 世界が変わると思いませんか? 

世界は混沌とし、誰も答えなんか知りません。もしかしたら何をやってもダメかもしれません。だからこそ、現実の物事に着目し、答えのない堂々巡りの議論を厭わず、根本的なことを考えつつ、幅広い視点から、超領域的に、具体的な問題にアプローチする、そんな取り組みが、教育が、少しずつでも、私たちを変えていくと思います。

【付録】「プロジェクト発信型英語プログラム(PEP)」で行う「プレゼンテーション(発表)」と「プロジェクト/プレゼンテーション・スキル」

プレゼンテーションとは、「発表という行為を通して、相手の認識を変える」ことです。自分が説明することで、相手が理解してくれたり、納得してくれたり、上手くいけば反対だった意見を賛成に変えてくれたりできるわけです。こちらがある情報を提供し、相手がその情報を得ることで知識が増えるというのも、一種の「相手の認識を変える」行為です。これがビジネスの分野になれば、プレゼンテーションは一種の「売り込み」であり、これによって相手が「物を買う」、すなわち「売り上げにつながる」わけです。この意味で考えるならば、プレゼンテーションをすることで、「確かにそういう考えもあるな」、「100%納得はできないし、同意もできないが、(少しは)興味が持てたな」といかに相手に思ってもらえるかが重要なわけです。自分がいくら◯◯が大好きだ、◯◯はすごいんだ、と語ってみたところで、それが相手の認識を変えない限り、「ふーん」、「だから何?」となってしまい、プレゼンテーションとしては失敗に終わってしまいます。「だから何?」を英語で言うと、そのままなのですが「So what?」となり、これはかなりきつい言い方です。

自分のプレゼンテーションには聞く価値(意味/意義)がある、聞いておいて損はない、とオーディエンスに思ってもらうにはどうしたら良いでしょうか。もっと言えば、どうしたら「独りよがり」と思われないプレゼンテーションができるのか、ポイントは、自分の発表内容に可能な限り客観性を持たせることです。つまり、自分だけがそう思っているわけではないという「データ」をいかに示すことができるのか、そうした「エビデンス(証拠)」をできるだけ準備するがとても重要になります。「△△が好きだ、だからすごいと思う」、ではなく、「△△は自分も好きだが、□□のランキングで◯位にランクインしている。また著名な☆☆も次のように評価している・・・」など、なるべく客観的なエビデンスを多く用意することで、結果的に自分の主張に説得力が増します。もちろん主観的な評価や価値判断もあって構いませんし、そういった「熱意」も時には大きく物を言います。相手を動かすわけです。そしてもともとのプロジェクトのモチベーションとして、「好きだから取り組む」、「興味があるから調べる」で全く構わないのですが、プレゼンテーションとして考える際、相手が納得しやすいような「ストーリー」をいかに構築できるか、そのためにエビデンスをいかに用意できるかは大変重要な要素です。